中根家について


江戸時代に旧福田村は徳川家の直轄する天領となり、慶長5年(1600)には川井久吉が領主となり、寛永11年に改易され、寛永17年(1640)に旗本中根正盛の知行地となります。

中根正盛は始め二代将軍秀忠に仕え、小姓を経て『大番組』に属しました。 寛永10年(1632)以来、家光の側近たちは老中や『六人衆』となって幕府の日常的政務を処理するようになりました。

寛永12年(1635)頃三代将軍家光の『御側』となった正盛は、諸大名、旗本と将軍の間の取次ぎ、その役目から各地の大名や幕臣の情報が集り、諸国の様子を監視していました。

寛永15年(1638)に壱岐守に、寛永17年(1640)には5000石を有していました。

慶安4年(1651)に起きた由井正雪・丸橋忠弥らの「慶安の乱」では『側衆(そばしゅう)』の立場から正雪らの行動を調査し事件は事前に発覚した。幕政批判と浪人救済を掲げ幕府転覆を計画したこの事件は、正雪の自害という形で幕が下りた。 「側衆」とは将軍近侍の役で、四代将軍家綱の承応2年(1653)設置が通説となっているようですが、実体としては正盛に始まったようです。   正盛は三代将軍の信任厚く「国家の安否みな正盛について達す」とまで言われた人物で、たいへんな能書家でもありました。

正盛は最後まで自分の言ったことを貫き通す人間だったとも言われている。あの生まれながらの将軍と自負する家光がだめだといっても決して自分の意思を曲げることはなかったそうで、ある時、家光に頼まれた正盛が武士を紹介した。その武士を家光が気に入らなく解雇し改めて武士の紹介を依頼した。しかし正盛は家光が解雇したその武士を再度紹介した。自分の紹介した人物に自信を持っていた正盛の気持ちを察し、家光は正盛の意見を受け入れ、その武士を使ったという話が伝えられている。

この地の代官であった中根氏がいた場所が現在の「代官」という地名になっています。以後、幕末まで中根家の知行が続きました。その中根家にまつわる5基の墓石が当山の墓地の中心にあり、大和市指定重要文化財となっています。


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中根家の墓地



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